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音楽と物語に関する文章を書いています。
ワイルドじゃなくてもいいからタフになりたい
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カテゴリ:Book( 109 )
梨木香歩 – 村田エフェンディ滞土録
梨木香歩の小説『村田エフェンディ滞土録』は、『家守綺譚』シリーズに連なる物語です。単行本を借りて読んだのはいつの日だったか。もう一度読んでみようと思い立ち、いくつも書店を巡って文庫本を買い求め、再読しました。本作の主人公が『家守綺譚』の主人公の友人であることだけは覚えていましたが、登場人物も展開もすっかり忘れていたので、物語との再会は再会にあらず、それは新たな出会いとなりました。はじめまして。

主人公の名前は「村田」といい、物語は彼の視点で進みます。時代は19世紀末、舞台はオスマン帝国が支配するトルコです。なお、「エフェンディ」とは彼の地における学者への敬称です。当時のオスマン帝国は弱体化しており、その雰囲気も物語に描き込まれています。考古学を究めんとする村田は、異国の風景に溶け込みながら、冷静に見たこと聞いたことを言葉にしていきます。
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最初、小説というよりは架空の人物が綴るエッセイのようであり、ほのぼのとしていてコミカルな空気が漂います。奇怪な出来事に遭遇したり、同居人どうしのいざこざに巻き込まれたりと、いろいろなものに翻弄される様子は彼の友人と似ています。ただ、最後まで日常が語られるのかと思いきや、雰囲気は次第に変質し、印象的な結末を迎えます。そのダイナミックな展開に呑み込まれました。

物語は「ディスケ・ガウデーレ(Disce gaudere.)」というラテン語の一文が登場します。意味は「楽しむことを学べ」です。ローマ帝国のセネカの著作に登場する言葉だそうな。村田は、軽いとは言いがたい雰囲気の中で、この言葉を噛み締めます。一時とはいえ同じ場所で同じ時間を過ごした友人たちの運命を思い、その重みを全身で受け止め、そして耐える。そんな彼の耳に「ディスケ・ガウデーレ」が響きます。

2018.05.31
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by mura-bito | 2018-05-31 21:34 | Book | Comments(0)
アイナ・イエロフ – NYの「食べる」を支える人々
アイナ・イエロフの著書『NYの「食べる」を支える人々』(訳:石原薫、原題:FOOD and the CITY: New York’s Professional Chefs, Restaurateurs, Line Cooks, Street Vendors, and Purveyors Talk About What They Do and Why They Do It.)には、食に関する仕事に就くニューヨーカーの声が多く集められています。レストランのシェフやウェイター、魚捌きのプロやパン職人、ダックファームやピッツェリアの経営者、ケータリングのシェフや刑務官、消防士など、多彩な職種の人々が登場します。それぞれの現在や過去について言葉を連ね、「何をしてきたのか(What They Do)」「なぜしてきたのか(Why They Do It)」を語ります。
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本書に登場する人々の言葉は、素材の良さを活かした料理のようです。とりわけ印象に残ったのは「ウェイター兼彫刻家」と称する男性です。ウェイターはレストランにおける接客のプロフェッショナルですが、彼は「給仕は屈従的である」ということを認識して折り合いをつけなければならないと語ります。

彼が考える「ウェイターの醍醐味」とは何か。それは、価値あるものを客に与えていることが実感できたり、客に喜んでもらえる気持ちよさがあったりすることだ、と。しかし、奉仕という点を忘れて自らの威厳に固執すべきではないと加えます。「仕事に自信を持つことと仕事の本質を捉えることは等しく重要」ということでしょうか。

給仕は、屈従的な行為だから、そのことを認識して折り合いをつける必要がある。うまく給仕できたときには、相手が二度と受けとることのできないものを、自分が与えているという実感が得られて自尊心も満足する。人に喜ばれるのは気持ちがいいもので、それがこの仕事の醍醐味だ。でも、その奉仕の部分をクリアしないで、自分の威厳にこだわっていると、ほんとうに破滅的な影響を及ぼしかねないですよと。

デイヴィッド・マックイーン
アイナ・イエロフ『NYの「食べる」を支える人々』(訳:石原薫)

ウェイターの話に興味を持ったのは、オノ・ナツメの『リストランテ・パラディーゾ』と『ジェンテ ~リストランテの人々~』を読んでいたからだと思います。リストランテを舞台にしたこの漫画では、男性給仕人(カメリエーレ)が重要な役割を果たします。主役ともいえるそのカメリエーレの回想において、彼は「なぜこの仕事を選んだのか」という問いを受けます。

彼は「美味しい食事を楽しもうと待つテーブルに料理を運ぶのは素敵なことのように思えて」と語りました。「料理を運ぶ」という行為に運搬以上の役割を想像していなかった僕にとって、その言葉は新鮮であり、とても印象的でした。しばらくして『NYの「食べる」を支える人々』を読んだとき、このインタビューにおける言葉と『リストランテ・パラディーゾ』の世界が重なりました。まるで目の前に料理が並ぶかのように、言葉がシンプルに自分の中に満ちていきます。

「どんなレストランでも、サービスと料理は互いを救い合う」と言われています。どちらかがすばらしかったら、どちらかが今ひとつでも、お客様はまた来るという意味ですが、僕は料理とサービスだけの問題じゃないと思います。レストランには、雰囲気が必要なんです。それと活気も。活気は、僕に言わせれば、4つの中で一番なくてはならない要素で、それはいいスタッフを揃えることでしか得られません。

デイヴィッド・マックイーン
アイナ・イエロフ『NYの「食べる」を支える人々』(訳:石原薫)

他にも多くのプロフェッショナルのプロフェッショナルな言葉に触れて、感銘を受けたり驚いたり、自らの至らなさを痛感したりしました。こうした人々の考えや過去をわずかなりとも知ることで思ったのは、「自分で選ぼうが流れに身を任せようが、落ち着くところに落ち着く定めがある」ということです。人生における選択とは、王道だろうが邪道だろうが、結果として大した違いはないのかもしれません。

同時に、各人の今が充実しているのは、苦労した経験が隠し味の役割を果たしているからだろうとも思いますけどね。その苦労も千差万別です。同じ苦労を別の人が経験する必要はなくて、苦労話はその人を綴る物語の一部でしょう。隠し味というには強烈すぎる体験(ナチスからの逃亡など)をしている人もいますが、苦労の軽重も含めて「落ち着くところに落ち着く」のだと思います。苦労することが大事というよりは、「生き方は人の数だけバリエーションがある」ことを改めて思わせてくれたインタビュー集です。
2017.12.26
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by mura-bito | 2017-12-26 21:55 | Book | Comments(0)
[PART2] 吉田修一『東京湾景』:「心」という見えない化け物にコントロールされた二人の距離感
『東京湾景』は、メールで知り合った男女が紆余曲折を経た後に晴れてリアルな愛に目覚める…という話ではありません。今でいえばSNSということになるのでしょうが、インターネットとリアルを対比して「リアルは大事」と結論付けるのは、分かりやすいというか、カタルシスは得られますよね。本作では、そういった表面的な対比を避け、メールはあくまでも媒体のひとつとして扱われます。

メールなどの媒体を介さずに対面しているときですら、二人は向き合っているようで向き合っていません。気持ちだろうが身体だろうが、触れているようで実は触れていない。触れようとしているのに、触れたくないという気持ちも同時に湧き上がる。互いの言葉は絡み合わずに、身体の中に降り積もります。作中の「ただのからだだったらいいのに」という言葉が印象に残りました。言葉を介して互いの気持ちが澱のように蓄積されて、それらは胸を打つのではなく、二人の心を重くしていきます。
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自分ではコントロールできない距離感、その原因は自分の「心」なのではないかと思います。「心」は自分のもののようでいて、自分のものではない。「心」は自分がコントロールできない存在であり、むしろ自分を支配する存在です。『東京湾景』は、気持ちの距離と身体の距離のずれに互いが思い悩むラブ・ストーリーの奥で、「心」という不可解な化け物を捉えた作品だと僕は思います。その化け物に抗いながら、絡め取られながら、二人はもがきます。

吉田修一の描く「人と人のつながり」には重みがあります。『東京湾景』に登場するツールや設定は表面的に捉えられやすいものですが、だからこそ、その奥に潜り込むことで「人と人のつながり」が持つ重みを強く感じることができます。そう考えながら再読すると、後年発表される大作『悪人』につながるものが、芽を出す程度だったとしても、『東京湾景』には含まれていたのではないかと思えてきました。
2017.11.30
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by mura-bito | 2017-11-30 21:24 | Book | Comments(0)
[PART1] 吉田修一『東京湾景』:深く交わることを避けながら、近づきたくて手を伸ばしかける二人
吉田修一の小説『東京湾景』は2003年に刊行されました。主役の二人が携帯電話のメールで出会い、物語は始まります。近づき、離れ、近づき、また離れる。そして二人は再び近づくのか、それともそのまま離れていくのか。二人の間にある距離を、淡々とした筆致で綴る物語です。連載されていた『小説新潮』で目にしたこの題名に惹かれ、直感で読みたいと思ったことを覚えています。

僕は、『パーク・ライフ』や『パレード』などの初期の作品に見られる「ビデオカメラ越しの視点」が好きで、それは『東京湾景』にも見受けられます。さらに本作では、「相手に深入りせず、他人事のように眺めながら、同時に近づきたくて、もがいている」距離感に魅力を感じました。これまでに何度も読みなおしましたが、久しぶりに再読する機会を得たので、改めて感じ取ったことを記録します。
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本作では、二人は「間に何かを挟んで」向き合います。例えば、最初はメールが二人を媒介し、途中からは作中の小説、そして終盤ではミケランジェロ・アントニオーニの映画『L’eclisse(日蝕)』がその役割を果たします。直接的ではない気持ちのやり取りは、気持ちが閉じ込められたもどかしさと同時に、生温い心地好さすら感じます。不安定な状態を淡々と描きながら、視点を変えれば安定しているともいえる、奇妙なバランスで描かれた物語だと思います。

そうした文体によって、この物語は「心と身体の乖離」を描きますが、僕は「二人の心は離れて、二人の身体は近づく、それらを『別の何か』がコントロールしている」と感じました。その「別の何か」の正体を正確に表現するのは難しいのですが、互いの中に存在して勝手な思惑で動いているもの。欲望という一面的で単純なものというよりは、本人たちも意識し得ない支配者に操られている。では、その支配者とは何なのか。
2017.11.27
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by mura-bito | 2017-11-27 21:57 | Book | Comments(0)
大崎梢 – 横濱エトランゼ
『横濱エトランゼ』は、横浜にまつわるささやかな謎や、登場人物たちの気持ちの交錯を描いた小説です。街並みや通りの様子が随所で描写されており、言葉で綴る横浜もまた魅力的だと思わせてくれます。元町、山手、根岸、日本大通りなど、よく知られた街もそうでない街も、横浜というひとつの集合体として登場します。
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横浜は関内にあるタウン誌の編集室。主人公は高校生活最後の半年間、バイトとして働きます。彼女は街の人々と交流したり、建物が持つ歴史に触れたりと、編集室を飛び出して横浜を駆け巡ることもしばしば。物語が動けば彼女が動く、あるいは彼女が動くことで物語が進んでいきます。

表題に含まれる「エトランゼ(étranger)」とは英語でいうところの “stranger”、すなわち「見知らぬ人(あるいは外国人や旅人)」のことです。物語で描かれるのは、エトランゼから別の新たなエトランゼへ受け継がれてきたバトンです。よそ者とよそ者が交わり、新たなよそ者を受け入れる。そのリレーが横浜という街をつくったといえます。
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人はどのように街を見て、そして街は人をどのように見ているのか。物語は「人と街の関係」を描きます。主人公は、自らの目に映る今の街を見て、過ぎ去った時間の痕跡を見て、人と街の関係に触れます。その痕跡には、歴史という人々の集合的な記憶だけではなく、名もなき人々のささやかな思い出が刻み込まれています。

横浜という街は、その中で生きる人たちが織り成す「人と人の関係」をそっと見守ります。物語が切り取った数ヶ月という時間の中で、主人公はさまざまな人との出会いを経験し、それぞれの思いに触れます。それらは、もっと広い世界に足を踏み入れる彼女の背中を押すのです。
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2017.10.24
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by mura-bito | 2017-10-24 21:41 | Book | Comments(0)
[PART3] 村上春樹『騎士団長殺し』:秋川まりえの三角形と彼女が受け取ったもの
PART2: 重なる三角形と最後に受け取った存在】途中から登場して存在感を放つ「秋川まりえ」は、脇役のひとりとするにはあまりにも惜しい、とても重要な位置に立っています。フォーカスの対象を主人公から変え、彼女に当ててみると、角度が変わって対象物の印象が変わるように物語の表情が変わります。

前回と同様に点を結び、三角形を描いてみましょう。「免色渉」が主人公に語った「秋川まりえ、秋川まりえの母親、免色渉」というファクターは物語に根を張り、謎めいた三角形として息をし続けます。免色という謎のキャラクターを生々しく語る核であり、秋川まりえの存在の重要性を際立たせるスポットライトのようでもあります。

主人公、秋川まりえ、秋川笙子」から「秋川まりえ、秋川笙子、免色渉」へのシフトや、重要な絵を共有した「主人公、秋川まりえ、騎士団長殺し」も意味のある三角形です。そして、免色渉の家に忍び込んだ彼女はクローゼットに隠れ、張り詰めた緊張感の中で「秋川まりえ、サイズ5の花柄のワンピースの持ち主、免色渉(あるいは免色渉ではない何か)」という三角形が描かれます。特に免色の家で起こった出来事は、彼女を主役に据えた短篇小説のようであり、彼女の行動や思考が活き活きと描かれています。
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秋川まりえは「主人公がたどった道を別の角度から表現している」のでしょう。主人公が穴の中の世界を旅している間、彼女は免色渉の家に忍び込み、そして騎士団長に導かれて時を過ごします。同じタイミングでそれぞれにエキセントリックな体験を経て、それぞれのゲートをくぐって、誰も傷つけることなく帰還してくる。

では、帰還した先で彼女が受け取ったものとは何なのでしょうか。それは「彼女の肖像画の中に秘められていたもの」ではないかと僕は思います。彼女の母親から彼女に受け継がれたものなのか、彼女自身に与えられたものなのか、それは想像の余地が大きいところですが。主人公は肖像画を描くことで、言葉では語ることの難しいそれの存在に気付きます。そしてそれを表に出すべきではないと考え、肖像画の中に留めました。肖像画を未完成のまま彼女に進呈することで、それの存在を彼女自身に託します。

主人公が免色に彼女の肖像画を渡さなかったのは、それこそが彼の求めていたものだからかもしれません。だから主人公は解き放ちかけたそれを絵の中に戻し、彼女以外の人間が触れることのないよう手を尽くした。そして、肖像画を受け取った彼女は、いずれ、肖像画の中のそれと向き合う時が訪れるのかもしれません。『騎士団長殺し』に続編があるとすれば……秋川まりえがそれと対峙し、新たな謎に包まれる物語を読んでみたいと思います。【PART1: 異世界からの帰還とその資格を得るための旅

2017.03.22
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by mura-bito | 2017-03-22 21:20 | Book | Comments(0)
[PART2] 村上春樹『騎士団長殺し』:重なる三角形と最後に受け取った存在
PART1: 異世界からの帰還とその資格を得るための旅】『騎士団長殺し』の登場人物や重要な小道具を、場面ごとに点で結んでいくと、あちらこちらで三角形が浮かび上がります。それらは直接会話を交わすだけではなく、場にはいなくとも重要な存在として描かれる場合もあります。いくつもの三角形が浮かび上がり、重なり、離れながら物語は進みます。ひとつの方向に進んでいるかと思えば、別の三角形に焦点を当てると、別の道筋が見えてきます。三角形という見方をすることで、物語が立体的に、多面体として立ち上がってくるのです。

物語の主軸となり得る三角形は最も重要な三人を結んだ「主人公、免色渉、秋川まりえ」でしょうか。一番大きい三角形として、物語の輪郭を浮かび上がらせます。東北地方と北海道を回る旅で描かれた「主人公、女、白いスバル・フォレスターの男」は、その後も主人公の影のように付いて回ります。また、「主人公、雨田具彦、雨田政彦」の三角形からは、雨田家に降りかかった出来事を通して、歴史に刻まれた暗い暴力の存在が不気味に鎌首をもたげます。「秋川まりえ」のスケッチを描いた後には、彼女と妹の「小径」が結びついて「主人公、秋川まりえ、小径」が三角形を作り上げ、主人公と秋川まりえとの結びつきが強固なものとなります。

主人公は穴の中に身を投じ、非現実の世界を歩きます。穴を開けるための儀式として「主人公、雨田具彦、騎士団長」から「主人公、雨田具彦、顔なが」に至るプロセスも欠かせません。穴の中では、旅人と案内人という関係で「主人公、顔のない男、ドンナ・アンナ」が存在し、そこをくぐり抜けるときには「主人公、小径、ドンナ・アンナ」がキーとなります(その伏線として、風穴における「主人公、小径、叔父」があったのか)。そして、これらを経て帰還した先に、新たな三角形が生まれます。
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いくつもの三角形が織り成す物語は、ひとつの三角形に収斂していきます。そのプロセスを追っていると「受け取る」という行為が見えてきます。悪や巨大な存在から何かを勝ち取るのではなく、あとに残ったものを受け取る。失うこともなく、通り過ぎることもなく、かたちあるものが手のひらに残る。与えられた「ギフト」を受け取り、大事に守る。

最後に登場する三角形が「主人公、柚、室」です。これまでにも家族や家庭を描いた物語はありましたが、これほどまでに重みを感じている描写は初めてではないかと思います。例えば『国境の南、太陽の西』では捨ててもいいとさえ思われていた家族(妻と娘)という要素が、この物語ではむしろ守るべきものとして描かれています。その手をしっかりと握っていようと思える存在。

僕は「主人公は受け取ったギフトの重みをしっかり感じている」と思いますし、それは村上春樹らしくないとも思い、同時に興味深いとも思います。暗示的に匂わすものはなく、シンプルに、形、重み、そして温かみがあるものとして、その存在の尊さを感じている。物語の終わりとして明確に句点を付けた、そう思える結末です。【PART3: 秋川まりえの三角形と彼女が受け取ったもの

2017.03.21
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by mura-bito | 2017-03-21 21:35 | Book | Comments(0)
[PART1] 村上春樹『騎士団長殺し』:異世界からの帰還とその資格を得るための旅
長編としては前作『1Q84』から7年ほどのインターバルを挟み、2017年2月に村上春樹の小説『騎士団長殺し』が刊行されました。前後編に分かれており、それぞれ「第1部 顕れるイデア編」、「第2部 遷ろうメタファー編」と題し、彼にしては珍しい要素も含みつつ、体幹のしっかりした筆致で新たな物語を描きます。

新たな小説を読んで新たな世界に飛び込むことができるのは、新たなアルバムを聴くときと同じくらい素晴らしい体験です。書店で実際に手に取ったときは、2冊併せて1000ページを超える紙の重みを感じながら、これからどのような世界に導かれるのか、期待に胸を膨らませました。ページを繰って物語に一度没入すれば、ワンダーランドに紛れ込んだアリスのように、ユニークなその世界を旅します。

ファースト・リーディングは、まるで真っ白なキャンバスに輪郭を描くようです。読み終えると心地好い読後感が残りました。そして再び冒頭に戻り、ページを繰ります。再読では物語の中を捉え、線を確かなものにして、色を乗せてしっかりと描きます。二回読んで感じたことをいくつか書き残しておきます。物語の世界は読者の数だけ存在しますが、僕にとっての『騎士団長殺し』もまた独自の存在として眼前に広がっています。物語を自分の中に取り込み、自分というフィルターを通してテーマをあぶり出してみたい。
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余韻に浸りながらぼんやりと考えを巡らせていて、頭に浮かんだのは「異世界からの帰還」という言葉です。最初に第1部を読み終えたとき、ふと「主人公は異世界の住人なのではないか」と思いました。その考えが頭の片隅に残っており、第2部を読む間に「帰還」という言葉と結びつきました。換言すれば「主人公が抱えていた闇を、いくつかの体験を通して浄化する物語」というところでしょうか。

僕の意識に強く印象付けられたのが「移動」という要素です。物語の序盤から中盤にかけて北国への旅が語られ、そして終盤では「穴から穴への旅」が繰り広げられます。現実と非現実の違いはあれど、どちらも移動であり、一対の行為なのではと思えます。そしてそれらは異世界から帰還する資格を得るためのプロセスなのではないか、と。現実の旅と非現実の旅を通過儀礼的に行ない、向こう側の世界から、こちら側の世界に戻ってくる。

これまでの作品に見られた「現実世界から非現実世界に向かい、何かを討ち果たして戻る」展開とは異なり、「成長」でもなければ「勝利」でもない。教えられるものでも勝ち取るものでもない。旅をすることで浄化し、レールのポイントを切り換えて、新たなルートに沿ってその世界から帰ってくる。そして帰還を果たした先には、これまた意外な結末が待っています。【PART2: 重なる三角形と最後に受け取った存在

2017.03.20
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by mura-bito | 2017-03-20 15:07 | Book | Comments(0)
京極夏彦 – 書楼弔堂 破曉
書楼弔堂 破暁

書楼弔堂 破暁

京極夏彦


京極夏彦の『書楼弔堂 破曉』は、記録に残された歴史の一点から鮮やかに虚構の世界を立ち上げ、「本」という存在、その意味に向き合う物語です。歴史上の人物も登場し、その話し方や考え方は作者の筆によるものなのですが、政治や戦争といった観点で描く物語とは異なり、日常の言葉が飛び交う時間を切り取った描写が新鮮であり、ひと味違う時代小説として楽しむことができます。

舞台は明治維新後の日本です。文化も政治も、そして人々の営みも大きく変わったようで、江戸以前のものが強く残る時代。あるものは連続的に残り、あるものは非連続的に断絶しています。そうした中で、生き方に迷う人々が、引き寄せられるようにたどり着くのが一軒の書肆(いわゆる本屋)。書肆を訪れた客と主との会話、そして見届け人のような語り手の言葉で構成される物語です。次から次へと交わされる言葉に引き込まれ、圧倒的な量の本や暗がりでゆらゆらと揺れる灯りの中で自らもその会話に立ち会っているかのような気にすらなりました。会話の中で、幽かに立ち上がってくる変化を捉えます。

***

「破曉」とは「曉(アカツキ)を破る」、すなわち夜明けを迎えるということでしょうか。明治より前が「夜」というわけではないのでしょうが、「御一新」によって政治のシステムが変わり、次第に人々の生活も変化してくると、新旧の価値観に挟まれて揺らぐ人々も多かったのだろうと思います。この物語では、本との出会いこそが次の一歩を踏み出す契機となります。膨大な言葉の奔流とともに、「その人に読まれるべき本」の存在が、人々の背中を押す。

表紙を飾る月岡芳年の「幽霊之図うぶめ」は、霞んで今にも消え入りそうで、怖さよりも切ない気持ちが呼び起こされます(浮世絵 太田記念美術館で観たときも、その儚い雰囲気にしばし言葉を失いました)。そして、表紙だけでなく、目次や奥付に使われている明朝体が目を引きます。どこにでもあるようで、大きさや位置を徹底的に「設計(デザイン)」された明朝体の文字は、強烈な存在感を放ち、他の書体では出し得ない味わいを生みます。本というものが背負う意味の大きさが、この本に印刷された文字のすべてから感じられます。

2017.02.16
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by mura-bito | 2017-02-16 21:10 | Book | Comments(0)
カーソン・マッカラーズ – 結婚式のメンバー

結婚式のメンバー

カーソン・マッカラーズ


カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』は、「村上柴田翻訳堂」シリーズの第一弾として刊行された小説です。このシリーズでは、村上春樹と柴田元幸が中心となって、再び読まれるべき小説を選んで翻訳や再発を行ないます。本書は村上春樹が新たに翻訳したものです。

主人公は、アメリカ南部に住むひとりの少女。彼女が繰り広げる会話や行動のあちこちに、「狂気」と呼べる思考が見え隠れします。物語が進むにつれ、子供時代に特有の夢想として処理され、通過儀礼的に昇華していくのだろうと思いながら、ページを繰りました。しかし、むしろ狂気は培養されて、彼女がそれにどんどん呑み込まれていく様子が描かれています。

本書で描かれた狂気は、あり得るか否か。本書は、リアリティを感じる描写こそが大事だと力説する読者、小説はとことんフィクショナルであるべきと主張する読者、どちらにとっても受容され得るのではないかと思います。この混沌こそリアリティと評することもできるし、ぶっとんだ内容がいかにもフィクションらしいと判断するすることもできる。個人的には、どちらとも断言しがたい、言わば「境界線を漂う」物語だと感じています。

ひとりの少女のナチュラルな姿を、真正面から捉え、物語に刻み付ける。カーソンが綴る文章は、何かに取り憑かれたように筆を動かす画家を思わせます。しかもそれは凪のように見える静かな言葉の中に住み着いています。章が移るごとに変化する「名前」は、主人公の成長を暗示するように見えて、実はずっと変わることなく主人公を支配する狂気の「影」を意味するのかもしれません。

2016.10.06
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by mura-bito | 2016-10-06 21:56 | Book | Comments(3)

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